1989年5月号  タイムズ

ベトナムにミシンを送ろう 〜市民による平和のかけ橋〜
下村美恵子(ベトナム友好市民の会)

北から南から403台が集まる
「ちょっと暇があったらブラザー工業まで乗せていってくれない?」
高橋ますみさんからこう頼まれたのは、昨年11月のことです。なんでも全国から集まる中古ミシンの保管をお願いしに行くとか。これが一主婦の私が[ベトナムにミシンを送る活動]に関わった最初です。
 ますみさんは自宅で学習塾をしながら、また東海BOC ―― 女性(主婦)の能力を生かし自立に結びつけようと活動している組織 ―― を主宰しています。彼女は昨年6月、「ベトナム友好市民の会」を結成、在日20年のベトナム人ユンさんら24人とホーチミン市などを旅しました。
 ブンタオ市では、婦人会が戦争で夫や両親を亡くした女性の自立のため洋裁など職業訓練に力を入れていると聞きました。
 「私達で何かできることは?」との市民の会の質問に対し、リュウ・チ・レイ婦人会長は[私達が戦後手に入れたミシンは5台しかありません。日本の中古ミシンをいただけたら・・・・]と訴えられました。「まず、やってみよう」そんな思いを胸に一行は帰国しました。私はますみさんと、東海BOCを通して知り合い、彼女の人柄や行動に引かれています。同じ町内に住んでいるので、時々高橋家に行って、封筒の宛名書きや問い合わせの電話対応、老齢のミシン提供者宅への引き取り、船賃カンパなどこの活動をお手伝いしました。そこでは多くの市民が様々な形でお手伝いしていました。ガレージセールをして船賃カンパしたグループ、地域ぐるみで50台ものミシンを提供した農業婦人クラブ、ミシン糸を大量購入して職場の一人一人に買ってもらい、その人たちの名前入り糸を提供した人・・・・・昨年7月に始まったこの活動は全国に広がり、昨年末までには北は室蘭から南は宮崎まで、403台の足踏み、電動ミシン ―― 年式は50年にまたがり、20メーカーもの種類 ―― が集まり、船賃カンパは251人から115万円が寄せられました。こんな大きな活動を中心となって進めていたますみさん、「初めは10台ぐらいを自分でこっそり送ろうと思ったの。ミシンがどんどん集まり始めたら、どうやって送ろうかと不安で1ヶ月ぐらい夜も眠れなかったわ」
 とふともらした言葉を、私は聞き流すことが出来ませんでした。
 1月23日、整備された150台と未整備の100台がベトナムに向けて船出しました。2月中旬、高橋ますみさんと私達5人は、そのミシンを追って、空路ベトナムを訪ねることにしました。

いよいよベトナムへ
私達は2月14日ホーチミン入り。
ミシンは既にサイゴン港に着き私達を待っていました。早速ホーチミン市婦人会の運営する市婦人職業訓練学校へ100台、戦争被害の特に大きかった同市フーニョン区とブンタオ市の婦人会へ75台ずつ、トラックで送り届けられました。トラックの後について、私達は先ずフーニョン区婦人会へ。ミシンはフィン会長らによって、箱を開けるのももどかしげに取り出されました。
 この感激の模様は、ホーチミンテレビ局によってその夜のニュースで放映され、広く市民に知られることになりました。翌朝行ったマーケットで「昨日テレビに出ていた人達ですね。ミシンを運んできたんでしょ」と売り子さんに声をかけられました。
 1976年、ベトナム戦争終結直後に設立されたホーチミン市婦人職業訓練学校は、戦争で両親を失った孤児の少女たちが、常時4〜500人3ヶ月間泊り込みで洋裁、編物、刺しゅうなどの技術を習い、同時に読み書きの教育も受けています。訓練風景を見学すると、既に35台ほどの古い足踏みミシンが活躍していました。どのミシンも動力を伝えるベルトがすり切れ、細いゴムひもや麻縄のロープで代用しています。また、油切れでガタガタと異様な音がしています。
 ボランティアでミシンの修理にあたり、今回同行されたブラザー工業の技術者が、早速1台のベルトを取り替えながら
「時間が有れば、もっと修理して上げられるのに」と残念そうでした。
「ミシンでものを縫うのは楽しいわ。早く上手になってアオザイを縫いたい」と訓練生のビンさん。手先の器用なベトナムの少女達。のんびりと楽しげに訓練していました。この後、訓練生と先生方が、私達一行のために歓迎の歌と踊りを披露してくれました。
一人の少女 ―― 栗毛色の髪と彫りの深い顔立ちが明らかにアメリカ人との混血児と思われる ―― が、メコンデルタの古い民謡を歌い舞った姿を、今も、そのもの悲しいメロディーとともに私は思い出します。
 彼女にとって、ベトナム戦争はずっと終わらないのではないか、と思うのはうがち過ぎでしょうか。
 最後に訪ねたのはブンタオ市婦人会。あいた建物を利用し贈られたミシンで、新しくブンタオ市婦人職業訓練校を開校する準備が整っていました。
 校長はハンさん。私がホーチミン入りしたその夜のパーティで臨席し、私にベトナム語をたくさん教えてくれた黒目勝ちの美人です。
 訓練学校の校庭で、ミシン引渡しの式典があり、このミシン送る活動の発端となった、リュウ・チ・レイさんがあいさつをされました。
 「物というより、市民一人一人の心の贈り物と感じています。“おなかのすいているときの一口は、満腹の山のような食べ物より貴い”というベトナムのことわざのように、将来生活が安定する日がきても、今日の記念すべき日を忘れないでしょう。日本とベトナムの永遠の友好関係を望みます」 ますみさんはそれに応えるスピーチの中で、自分の戦争体験に触れ、「私は6才の時爆撃に遭い、両側にいた3人の小学生が亡くなり私だけが生き残りました」
 と声を詰まらせ、
 「あの方達の分まで生きるため、自分は何をすべきかずっと考えて生きてきました。その一つの道が、今回の活動です。・・・」
 そう言えば、ミシン提供者の多くが、戦後そのミシンで生計を助けた年配の人たちでした。今さらながら、今回の活動が共通の戦争体験に根ざしていること、またこうした草の根運動が国民感情を育てる上で、大きく作用するものだと感じたのでした。


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